かの孤高の天才デザイナー、ジョン・ガリアーノ氏が、約10年間務めたメゾン・マルタン・マルジェラのアーティスティックディレクターを退任することを先日発表した。
わたしがファッションという果てしないフューシャピンクの沼にハマり始めたのは、中学生の頃だっただろうか。
その頃ガリアーノ氏はちょうどディオールのデザイナーに抜擢されており、そのクリエイティビティの華々しさはもう飛ぶ鳥を落とす勢いだった。数々の素晴らしいメゾンが名を連ねる中で、ガリアーノのデザインするショーはいつも異質だった。それはその美しさはもちろんのこと、日常のあらゆる「退屈」とは真逆にあるものだった。通常のショーだと、モデルは大抵少し気だるげに、もしくは少し強めに、もしくは少し楽しげにランウェイを闊歩するのであるが、一方彼率いるディオールでは、モデルは追われている熊かライオンか(上司か鬼姑か?)何かから逃げるように、鬼気迫った顔で走ってきたりしたのである。さながら何か劇でも見ているような感覚であった。ファッションという業界で、あの1本のランウェイという制限された舞台の上で、限りなくその既存の業界の限界を突破すべくギリギリのところで表現の可能性を探っていたようだった。だから毎回新しく、毎回新鮮な驚きがあった。
そしてまた、ある意味異質だったのは、デザイナーが少々目立ちすぎていたことである。普通、わたしのイメージでは、デザイナーは比較的地味な格好をしており、ショーの最後に袖から出てきて、軽く会釈なり手を上げるなどして早々にひっこんでいく。一方当時のガリアーノ氏は、それこそ舞台の主役俳優よろしくそれはまあ煌びやかな装飾を纏って、この地球上の全てのライオンを引き連れて歩いているような黄金たる佇まいであった。たまにアイコン化するデザイナーはいるけれど(例えばシャネルの偉大なデザイナー、故カール・ラガーフェルド氏のように)、その中でもガリアーノ氏は最も絢爛で、最もナルシスティックであった。
もう残念ながら手放してしまったけれど、当時私は、前面にどでかくはみ出さんばかりのガリアーノ氏の顔写真がプリントされたJohn Gallianoブランドの真緑のTシャツを持っていた。少々気恥ずかしかったけれど、それなりに気に入っていた。
闊歩するガリアーノ氏
その後、わたしが現実世界に忙殺され、ファッションからしばし遠のいていた間に、ガリアーノ氏はとんでもないスキャンダルをやらかして人生のどん底まで落ちていた。パリのカフェで泥酔したガリアーノ氏は、横にいた見ず知らずのユダヤ系女性に反ユダヤ的人種差別発言をしてしまったのである。ここでは詳細は省くが、まあおぞましい言葉の数々であった。あとから当時の映像を見返すと、かなり戦慄を覚える内容であるし、人間の深層心理とはかくも恐ろしいと、しばらく考え込んでしまった。もちろん一番苦しんだのは被害者の方であるだろうし、推察するに、記憶をなくすほど酔った中での、自分の口から出たとも思えないような発言が、これだけの人の苦悩を生んでしまったと知った時の本人の罪悪感も計り知れない。
この天才の転落劇は、今年公開されたドキュメンタリー映画にもしっかり記録されている。
ちなみに余談だが、ガリアーノ氏が事件を起こした舞台となったのは、パリは3区、マレ地区にある”La Perle”というカフェ。ピカソ美術館の近くの通りの角にあり、典型的なパリのカフェという様相、人通りもそこまで多くなく、テラスも気持ちのいいカフェである。観光客もそこまでおらず、落ち着いていて、店員さんの愛想もいい。かつて、歴史上のパリの文化人がよく集まっていたカフェと聞きつけて、わたしもミーハーよろしく何度か訪れたことがある。早朝に行くと、常連さん(ほぼおじさま)が一人で次々とやってきて、たわいもない話を二、三しながらカーっとエスプレッソをひっかけてすぐ帰っていく。なかなか好きな光景である。
まさか、現代の文化人がここのテラスで人生を揺るがす夜を過ごしていたとは。映画で観て気付き、少し驚いた。
さて、転落劇から地道に這い上がり、はや10数年。今年、ガリアーノ氏はおそらくファッション史に確実に名を刻むであろう、あるコレクションを発表した。「2024SS アーティザナルコレクション」である。
最近ガリアーノ氏の動きを全然フォローしていなかったのだが、このショーの素晴らしさは噂で聞きつけた。そして文字通り本当に、どハマりしてしまった。ドロドロにハマった。深い深い藍色に、きらりとシルバーの煌めく星が映り込む、最高に美しい沼だった。久々に何かのクリエイションに鳥肌が立つほど感動した。20年代パリの妖しさと煮えたぎるような欲望に包まれたモノクロームの街が、ポエティックな映画と、それに続く言葉を失うほど美しいショーによって完璧に再現されていた。再現されていただけではなく、それは同時に新しく、また美しい何かへと昇華されていた。沼の底では、おそらくガリアーノ氏のものと思われる、温かくてしっかりとした腕にそっと包まれた。底はシンと静まり返っていて、お母さんのお腹の中にいる時のようだった。
最近何にも心が踊っていないな、という方は、諦めないでほしい。あなたの心に靄がかかっているのではなく、まだそれに出会っていないだけなのだ。
ウワサのコレクションのフル動画。大袈裟でなく、30回以上は観ました。オープニングのLUCKY LOVEのパフォーマンスも最高です。
この、孤高の天才の転落劇と見事な復活劇をみて、思うことは何か。
それは、「創造に、酒やドラッグへの依存による浮遊感は不要である」というテーマである。
このテーマはおそらくアートの世界においては、絶えず論じられているテーマではなかろうか。というのも、過去にあまりに薬物に依存した偉大なアーティストが多すぎるのである。音楽家にしても芸術家にしても、世紀の傑作を生み出した偉人たちは、大体何かの依存症である。依存に依存を重ね、体をボロボロにするから大抵早死である。そもそもその前に自死を選ぶこともざらである。もちろんおそらく皆、創造のために何かに依存していたというより、依存しないと生きていけないから依存していたのだとは思うが。その依存した薬物を使うことで得られる一時の浮遊感のままに、クリエイションに励んでいたというイメージがどうしてもアーティストたちにはある。ちなみにこの文脈では薬物というと、酒やタバコ、いわゆるドラッグが語られがちだが、わたしの専門である栄養療法の世界では、白砂糖やグルテンもその仲間に入る。(悪い女、も入れてもいいかもしれない。)まあ確かに、健康的なアーティストなんてあまり格好はつかないのかもしれない。この2020年代になってさえ、くわえタバコで創作活動を行うアーティストを見て、少ししびれる気持ちを持たないとは言えない。でもやはり、薬物に「依存」することは、自分の体を少しずつ蝕むことに他ならない。そこには遅かれ早かれ、美しいとは言えない死が待っているだけである。
例の事件以来、約14年間、ガリアーノ氏は飲酒をキッパリと辞めて”Sobar”を貫いたそうである。
今回マルジェラ退任に際して、彼が10年分の想いをしたためた文書には、こう書かれている。
”(例の事件後)しばらくの間、自分自身を許すことが最も難しかった。創造性というものは酒やドラッグによって刺激されるのだという固定観念を、自らの行為で助長してしまったことに罪悪感を感じていた。そんな古びたロックンロール的な考え方。本当に間違っていた。わたしは、マルジェラのチームと共に、創造性たるものは決して色褪せないことを証明してみせた。創造性とは、このような(酒やドラッグなどの)破壊的行為ではなく、デザインを慈しみ、深く考察するクリエイティブな仲間との結びつきによってこそ花開くのだと、今回このチームと共に証明した。”
美しい創造をするために必要なのは、酒やドラッグなどへのどうしようもない依存ではなく、クリエイティビティに対して真摯に取り組む、アートを愛する仲間たちとの結びつきなのだ。
ガリアーノ氏は今季のコレクションで、それを見事に名実ともに証明してみせた。
人種差別的発言は決して許されるものではないけれど、この彼の復活劇には心からの拍手を禁じ得ない。だって、こんなに美しいものを創ってみせたのだ。こんなに数えきれないほどの人たちを感動させ、夢中にさせ、虜にさせた。それこそこの創造物がドラッグのようなもんである。美しいものを作る創造性とは、人間が与えられた能力の中でも最も素晴らしく、最も崇高なものの一つだと、個人的には思っている。
そして一つ、美しい創造をするために必要なものとして付け加えさせていただくとすれば、それを創造する一人一人が、目の前の時を、空間を、人生を心の底から楽しむ、無邪気な子ども心を忘れないことである。子ども心は、間違いなく創造の源である。
ガリアーノ氏には、心身の健康を維持していただいた上で、これからも想像を絶する美しいもの、人生の歓びを感じられるような作品をぜひ創り続けていただきたいと、心から思っている。