人は、ことごとくコミュニケーションに悩む生き物である。
思えば、同じヒト科の動物。同じような臓器を同じような数だけ持ち、毛もまばらな滑らかな皮膚で皆覆われている(たまにもじゃもじゃの人もいる)。皆一様に布を纏い、たまに体の上側と下側とを違う布で覆ったりもする(なぜ同じ布でいっぺんに覆わないのかと、他の動物は疑問に思っているかもしれない)。おまけに布の立体物に小孔を開け、そこから上肢や下肢を器用にすべり込ませたりまでしてしまう(最近は、たまに犬も同じような小孔付きの布を覆っている)。基本的に直立姿勢で生活し、下肢を器用に動かして、スピードの緩急つけて、皆水平方向に移動する。翼は生えていないので、残念ながら飛ぶ人間はいない。基本的に、同じような四角い(たまに丸い、たまにいびつな)形の箱の中で生活している。
まあ大まかに言えば、人間なんて大体同じようなもんである。けれどもどうして、人間は、他の人間のことがよくわからない生き物のようである。
心理学という学問がある。人間の心理や、それによる行動を研究する学問である。
古くはアリストテレスに始まり、プラトン、デカルト、フロイト、アドラー、ユングなどなど、数多くの哲学者や心理学者、医者が研究に研究を重ねてきた。錚々たる面々の偉大な研究の結果、さて現在、人間が晴れて人間のことをわかるようになったかというと、結局よくわからない。今日もあっちやこっちや、いろんなところで、喧嘩や争い、誤解による軋轢などが日常茶飯事である。
結局、人は人のことがわからない。
やっかいなのは、人は、一番近い人である「自分」のこともよくわからない。自分というシステマティックな物体の、選ばれし操縦者でありながら、何を操縦しているか、よくわかっていない。この巨大システムの中核を担うのはてっぺんにある脳であるが、脳なんてあらゆる研究を経た今でも、なんだかよくわかっていない。幼い頃、とても疑問に思っていた。よくわかっていない物体が、自分の体の中に当たり前のようにあることを。
今日も横浜中華街のあやしげな占いは賑わっているし、ファッション誌の巻末には、毎月人気占い師の一言二言コメントが欠かすことなく掲載されている。一部の女たちは、毎月好みの雑誌が出ると、巻末の占いからいそいそと読み始める。食い入るように、読み始める。
最近だと、ユングの心理学をベースにしたMBTIが大流行し、SNSのプロフィールに自分の診断結果を掲載する人たちもよく見かける。やっと自分のことを理解した気になるが、あれおかしいな、毎回テストするごとに診断結果が変わったりする。とたんにまたわからなくなる。
結局、人は自分のことも、そうそうわかりはしないのだ。
人が自分、そして他人のことを理解していくというのは、どうやら人類史上永遠のテーマであるようだ。と同時に、充実した生を生きる上では、この難解なテーマは人類皆取り組むべき問題であると思っている。
さて、それでは現代の心理学界隈はどうなっているか。
「PCM(Process Communication Model)」という手法がある。米国生まれ、米国育ちのテービー・ケーラー博士という一人の天才が、80年代に確立した一つの手法である。
この博士、わたしは存じ上げなかったのだが、その界隈ではちょっとした有名人らしい。一躍有名にしたのは、米国のクリントン元大統領の心理カウンセラーに任命されたことだろうか。当時、州知事戦、大統領選を勝ち抜く中で、ケーラー博士は各州ごとに募って心理分析をし、その結果をクリントン氏に随時報告。クリントン氏は、その結果に基づいて、州ごとに演説内容や手法を変えていたらしい。選挙ってそこまでするものなんだと、シンプルに驚きを隠せない。
このPCM、先日ちょうど体験してきた。
やり方はシンプルである。考え方や普段の行動スタイルについて問う、40問程度の質問に答えるだけである。PCMでは、私たち人間は皆「6つのパーソナリティタイプ」を持っているとされており、その6つのバランスや、どの要素が強いか、弱いか、私たちが自身の半生でどのパーソナリティタイプのフェーズを通ってきたかなどがわかる。
6つのフェーズはそれぞれ色で表される。
黄:「楽しいことが好き!ずっと笑っていたい!遊び心、クリエイティビティ満載」というラテン自由人タイプ
青:「合理的に考える傾向、数字が好き、冷静沈着、効率的仕事人間」合理思考系タイプ
赤:「即行動!肉食動物、勝負師、やるかやられるか」孫正義タイプ
オレンジ:「頭より心で感じる、人を思いやる、繊細さ、植物や木製家具好き」感受性タイプ
茶:「物静かだけど実は内面世界が充実、想像力ピカイチ」小説家タイプ
紫:「貢献!尊厳!銃砲相手にも最後まで刀で戦う」侍タイプ
(かなり簡易的に表現し直しています)
わたしの結果はこうだった。
一番下にあるのが、その人の根本的なベースのカラーだそう。わたしのベースは黄色である。楽しくないと意味がない、笑ってないとダメ、根っからのラテン系みたいだ(まあ当たっている)。
そこから、人生のあらゆるドラマに伴って、奮闘した分だけ階数を上がっていく。今止まっている色が、現在のフェーズだそうだ。
わたしはベースに黄色を持ちながら、人の表情や空気を読み過ぎるオレンジによって、黄色の子ども心が抑制される傾向にあった。その後哲学や美学、人生とはなんぞやみたいな教訓系のことをよく考えるようになり(紫)、そして現在は、完全にひとりの時間を優先し、ひたすら内面の想像世界に浸っているようだ。
結構、当たっている。
まあ占いではないし、過去の心理学を踏襲した確立されたプロトコールなので、当たっている、という言い方はよくないかもしれない。
自分自身でも、自分のことはある程度理解しようと努めているが、また別の視点から見てみることで、より自身の解像度が上がったような気がした。
このPCMのウリとしては、この分析をコミュニケーションに活かそうということみたいだ。たしかに、相手のこの分析表がわかっていれば、相手が何を大切にしている人か、どういう思考法なのかおおよそ予測できる。それによって、相手への発言も少しづつ変えることができるというわけだ。
現に、円滑なコミュニケーションが必要とされる仕事場では、すでにかなり活用されている。本国アメリカでは、導入されている企業として、アマゾンやアップルをはじめ、名だたる大企業の名前がどんどん出てくる。日本でも、ジャンル問わずいろんな職場で導入されており、一部の医療従事者界隈でも結構流行ってきている。
ただ、思うことがある。
今回のPCMに限らず、こういった心理学をベースにした心理分析、性格分析というのは、落とし穴がある。
というのも、先に述べたように、いつまで経っても、人は、基本的に人のことがわからないのだ。
こういった合理的な分析で綺麗に分類され、そこにきちんと行儀良く整列するほど、人というのは単純明快な生き物ではない。もっと、ふわふわして、ドロドロして、モヤモヤした、非常に有機的な生物なのである。
合理で分類していくとき、この我々人間の有機的なつながりというのは、無作為にブチブチ切られてしまう。切られた後は、もう元の形をなしてはいない。
残念なことに、このとき切られてしまう儚い有機的な繊維束こそが、人間を人間たらしめる、非常に魅力的な部分でもあるのである。
このような性格分析はあくまで一つの指標として、ぜひ参考にしたい。
しかしこれであたかも人間のことを理解した気になるのだけは、避けたい。
心に留めておきつつ、最終的には、この人間の未知なるつかみどころのない領域にそっと割って入る、豊かな想像力を身につけることが何より大事だと思っている。