「形から入る」という言葉があります。
外側をがらっと変えることで、外側にどうにか追いつくかたちで内側が変わっていくことは、私たちの日常生活でも実によくみかけます。
歌舞伎は、幼い頃からまずその型を覚え、見よう見まねでその型を真似ることで、だんだんとその役らしくなってきます。女のなんぞやも知らぬうちから女役をどうにか演じていくうちに、気付けば自分の中に紛れもない「女らしさ」が育っていくようです。
日本の閉塞感にくすぶる自分をどうにか奮い立たせたくて、思い切って1年間ロンドンに留学する。異国の地に揉まれて生活していくうちに、自分の中に眠っていた夢や生き甲斐が再び芽吹きはじめ、気付けば自分の内面が180度生まれ変わっていくことを実感する。
美容医療で顔かたちを整えることで、眠っていた内側が、その施術をきっかけに静かに輝き始める。
これらは全て、外側を変えることで、内側がそれに伴って変わっていく例です。
外側をがらっと変えてしまうということは、時として、驚くほどの効力を発揮します。それは紛れもなく人生を変えるほどの体験です。
特に我が国日本では、この「形から入る」という独自の文化が古来から強く根付いています。先述した歌舞伎に限らず、空手や剣道などの武道と呼ばれるスポーツはたいてい、型から入ります。型を覚え、鍛錬していく中で、どこかの段階でその型を真の意味で理解するようになります。鮨職人を目指す若者は、今でこそ「鮨スクール」などといった少々無粋なものも出てきましたが、元来鮨屋の大将に弟子入りし、下働きして叱られながら大将の技を型としてとりあえず身体に染み込ませ、段々と習得していく中で、その型の理屈を後から徐々に理解するようになります。
先日エミー賞を総ナメしたドラマ『SHOGUN』では、日本の武道の型を忠実に再現すべく、主演・プロデューサーの真田広之さんが相当尽力されたそうです。元々ハリウッドでよく製作される日本のサムライ系映画は、往々にして本来の日本の伝統的な型が湾曲されて演出されていました。出典:The Hollywood Reporter Japan
このように、「形から入る」文化は歴史のしっかりとした裏付けのもと、それ相応の結果に結びついて今に至るわけですが、いかんせん、メリットばかりではありません。
気をつけなければならないのは、外側を変えてしまってから、内側がそこに追いつくまでに、しばしの「乖離」があるということです。
外側をガラッと変えることは、程度の差はあれど、おそらく少しの勇気があれば、もしくはそのお手伝いをしてくれる素晴らしい人に巡り合ったら、程なくして、誰でも容易に行うことができます。
一方で、そこに伴うように内側を追い付かせる作業は、その人の泥臭い努力なくしては叶わないのです。
もし本人の努力が乏しければ、一瞬の間に限りなく遠くへ行ってしまった外側と、それについて行けずその場にとどまってしまう内側の、「乖離」が生じます。この「不調和」を、人間の脳は「不自然」と認識します。そして不自然なものは、往々にして、「美しくはない」のです。
美しさとは、ある見方をすれば、外側と内側の限りない「調和」です。別の言い方をすれば、「つじつまがあう」ということです。
本来であれば、内側の身体や心の健康状態、人生経験や人生哲学、強さやしなやかさ、優しさなどが全て相まって、結果としてそれが外側に現れるため、元々内側と外側は調和しており、それが自然な美しさにつながります。
この調和のアルゴリズムの中で、外側をいきなり劇的に変えてしまうと、調和が崩れ、この不均衡を再び元の平穏な調和に持っていくためには、それ相応の相当な負荷がかかります。
「形から入る」、外側を先に変えてしまうということは、この美の対極にある不調和のリスクを多分にはらむ、大変なことだという認識を、今一度改めて心に留めたいと思っています。その上で、日々の一つ一つの選択に意味を持たせていきたいと思っています。